2010/08/01

客家

「世界・ふしぎ発見!」で客家がとりあげられていました。
Leslieのプロフィールに広東省籍の客家人と書かれている
ところがあり、前から興味がありました。
客家の家訓を聞いていると、なるほどと思い、Leslieの考え
はこの家訓からきているのかなと思うところが多々ありました。







曾祖父は160年前に広東省汕頭からタイにやってきた客家で、タイ人の曾祖母と結婚した。客家の家系と思われがちだが、祖母は潮州人だし客家の血は薄く、子供のころはタイ人という自覚しかなかった。
 1953年、カンチャナブリ県生まれで、22人兄弟の長男。親族みな商才に長け、私もその血を引いていた。伯母のピーナッツ売りの店を5歳のころから手伝い、売値25サタン(1サタン=0・01バーツ)のうちコミッション5サタンをもらっていた。そのころすでに、中国のお年玉を貯めて銀行に50バーツ貯金していたから、相当ませた子供だったはずだ。
 8歳のとき、伯母が店を手放すことになった。自分でやりなさいと言われ、そのまま引き継いだ。小学校に通っていたから、昼間は祖母に店を見てもらった。店は10平方メートルもなかったと記憶しているが、ピーナッツだけでは飽き足らず、ほかの菓子をどんどん並べて20種類ぐらいまで増やし、立派な駄菓子屋にした。
 13歳のころには、父親のサトウキビ畑をトラクターに乗って見て回ったり、そこで働くワーカーを取りまとめたりと動き回っていた。稼いだカネは使わずに貯めるだけ、貯金は1万バーツにまで増えていた。その頃の物価で覚えているのは、高級輸入車のジープが4万バーツだったということだ。
 15歳で台湾に留学、6年以上を向こうで過ごした。台湾を選んだのは、従兄弟が留学していたから。子供の頃、家では客家語が使うときがあって片言を話せた。客家語は標準語に近いから、台湾で言葉を覚えるときに役に立った。
 中国人の血が流れていることを自覚したのは、台湾に行ってからだ。あらゆることが自分に馴染んでいた。商才を身につけようと、休みの日は展示会巡りをした。そのような商売っ気とは反対に、タイにいた頃のように仕事づくめでなく、自分の時間がもてることも嬉しかった。
 国立台湾大学を卒業した1975年にタイに戻ってきた。カナダのトロント大学で修士学位を取るため、学費2万カナダドルを稼ぐための帰国だったが、そのまま今に至っている。
<実績のあるパートナー、優秀なスタッフを探す>
 帰国後まず始めたのが、民芸品の日本への輸出。知り合いの台湾人の日本への商談に便乗し、民芸品を買ってくれる人を見つけてきた。しかし民芸品の質が一定せず、この仕事は長続きしなかった。
 次に、タイにたくさんあり、品質が安定していて、外国にあまりないもの、という商品をバスに乗って探し回った。そして見つけたのがチョンブリ県のタピオカだ。1977年から台湾に輸出、仕事は波に乗った。
 「自分はカネを稼ぐ男だ」という自信、というよりむしろ自覚があったから、いろんな仕事に手を出して失敗しても気にならなかった。そして1988年、現在の成功を導いたバンパコン工業団地を立ち上げた。35歳のときだ。
 子供の頃、カネはただ貯めるだけだった。学生の頃、カネは留学という目的を達成するための手段だった。留学を諦めてビジネスに専念してからも、カネは最終目的でなく事業拡張のための手段でしかなかった。アマタ(工業団地)は現時点での成功であり、あくまでも通過点であってほしいと思っている。
 アマタの成功は第一にロケーションの選択だが、その後の成長は一貫してコスト管理にある。顧客の利益のための、自社の利益のためのコスト管理。例えば、団地が発電事業に乗り出せば新たな収入が見込め、より安価な電力の供給で顧客は利益を上げることができる。
 日系企業がタイで事業を展開していくのは、決して難しくない。これほどまでの日系企業が進出し、その中で撤退を余儀なくされたのは何社だろうか。非常に少ないと言ったら、無責任だろうか。
 事業の成功はタイ人次第だ。合弁であれば、経験値の高いパートナーを選ぶ。日系企業が持つ技術とノウハウ、タイ側パートナーが持つコネクションとネットワーク。両者が手を結べば、事業は必ず成功する。タイ工業連盟(FTI)やタイ商工会議所などの名簿を調べるだけでも勉強になる。
 全外資の企業でも、要はタイ人だ。優秀なタイ人を雇うこと。日系自動車メーカーのトップクラス、マネジャークラスには、勤続何十年といった優秀なタイ人スタッフが数多くいる。
<自分で使わなければ自分のカネではない>
 これまでがむしゃらに稼いできて、今では使い切れないカネがある。ワイシャツの胸ポケットに100万バーツあったとしても、10万バーツしか使わなかったら、残り90万バーツは自分のカネではない。そのような考え方から、より多くの人たちに貢献するため、アマタ財団を創設した。会社の利益は株主のためにあるから、寄付は全て自分のカネ。すでに10億バーツを超えた。
 アマタの成功は、ビジネスとしては単なる通過点だが、プライベートとしては大きな転機となった。今はカオヤイ(タイ中部、東部、東北部にまたがる自然国立公園)の別荘で、月の20日を本の執筆に費やしている。誰もいない、犬2匹との生活だ。自伝を中心としたもので、過去7年で130万部を発行。目指すは1000万達成だ。テレビの9チャンネルでは、自分を題材としたドラマも始まった。
 政界入りが何度もうわさされる。実際に、アピシット首相、ステープ副首相、サナン副首相、スワット元労相など政界の大物から誘いを受けている。外相に憧れたときもあったが、今はその気はない。政治家になるにはあまりに真っ直ぐだと、自分の性格を理解している。
 その代わりというわけではないが、自らの生い立ちを綴った本は、多くの人のためになる内容だと自負している。本を読んでもらったり、テレビドラマをみてもらったりすることにより、より良い社会を築けたらと思う。

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