2014/08/04

【朝鮮日報コラム】歴史と正直に向き合わない韓国




【コラム】歴史と正直に向き合わない韓国 
日清戦争120年、韓中日の史跡にみる歴史との向き合い方 

 韓中日3カ国はあまりに異なっていた。先月上旬から中旬にかけて、韓国・中国・日本の日清戦争の現場を 
取材した。今年は日清戦争120周年。1894年7月25日、韓国・牙山湾の豊島沖で、日本は清の艦隊を奇襲した。 
その後3カ国は互いに異なる歴史の道を歩んだ、ということを言いたいのではない。言いたいのはまさに今、 
歴史を記憶する方法についてだ。 

 日本は、過去を誇らしく回顧していた。日本の艦隊が出発した佐世保、軍艦を建造した長崎、「戦時の首都」 
だった広島などを訪れてそう感じた。「輝ける歴史」と明示してはいなかった。「1882年 軍艦整備計画案に 
基づき、2400万円を投じて、8年がかりで軍艦32隻を建造する計画を立てた」「広島に大本営を設置し、明治 
天皇が1894年9月15日から翌年4月27日まで滞在した」。関連の展示館や記念館の案内文は、静かに事実を 
記していた。 

 佐世保の海上自衛隊史料館は、1945年8月までに沈んだ日本の艦艇の数を整理し、図表にしていた。太平洋 
戦争中、空母25隻、駆逐艦253隻、潜水艦170隻、巡洋艦42隻など計502隻が沈んだ、という内容だ。既に 
70年前、これほど大規模な艦隊を持っていたという事実に驚いた。乾いた文体の「行間」から、過去の戦争に 
対する郷愁が伝わってくるように感じた。侵略戦争を起こし、他国の国民だけでなく多数の日本国民も犠牲に 
なったという反省や後悔は、一言もなかったからだ。 

 中国は、屈辱の歴史を深く刻んでいた。日清戦争当時、北洋艦隊の司令部があった山東省威海の劉公島に 
「甲午戦争博物館」を作り、恥辱の歴史を詳細に記録していた。劉公島の陥落で清は屈辱的な敗北を味わい、 
丁汝昌提督は自ら命を絶ち、巨額の賠償金を払い、台湾など領土を奪われ、日本軍が旅順を占領した時には 
中国の民間人約2万人が虐殺された、という内容だった。展示館の出口には「甲午戦争で敗れた屈辱の歴史は 
『立ち遅れてしまうとすぐにやられる』という道理をあらためて証明した。われわれはこの歴史を教訓として、 
海上に鋼鉄の長城を築くことで歴史の悲劇が繰り返されないようにしなければならない」という誓いが記され 
ていた。 

 韓国の現場には、何もなかった。専門家の案内がなければ、どこでどのようなことが起きたのか、全く 
分からなかった。日本軍は豊島沖海戦の2日前、7月23日に景福宮を占領し、高宗を捕虜にした。清と日本は 
7月29日の「成歓の戦い」を皮切りに、朝鮮の地で戦争を行った。日本軍は韓半島(朝鮮半島)南部で東学 
農民軍3万人以上を虐殺した。しかし景福宮にも、成歓にも、虐殺現場にも、これが記録されている所は 
なかった。恥辱の現場を消すことが、痛みを克服する方法だと思ったからなのかもしれない。しかしこれは、 
歴史と正直に向き合う態度ではない。 

 取材の過程で会った中国人の教授は、恥辱の歴史を細かく記憶する理由について「倒れた場所からまた 
起き上がらなければならないため」と語った。ならば韓国は、いまだに倒れたままだ。 

李漢洙(イ・ハンス)文化部次長 

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版 2014/08/03 07:10 

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